2015年01月12日

Chalie Hebdo 襲撃事件の容疑者は死亡した。フランスの唯一絶対神は、理性と共同体の価値観だった。非寛容な神は近代化とともに死んだが、インターネットとグローバリズムとともに復活した。


という話。


フランスの新聞社を襲撃した犯人が殺害された、というニュースがあった。なんともあっけない結末である。


全くの個人的な意見だが、フランス人の書いた文章に触れれば触れるほど、「・・・遠いなあ」と思うわけである。感覚も考え方も何もかも。告白するが、今回の事件の背景もその後の顛末も、実はあまり良く理解していない。というより調べても良くわからない。イスラム系移民の差別とか、過激派のテロリズムとかの単純な話じゃなさそう。


以下は分かった範囲内での話である。勿論、主観もあるし、私の理解力の範囲内での話だ。


フランスは、歴史上、長いこと宗教的対立に悩まされてきた。宗教が原因でおこった、戦争に虐殺に、聖職者の政治介入と堕落。もういい。非寛容な神はいらない。もうたくさんだ。あなた方は退場するべきです。というか、退場してくれマジで。


というわけで、その非寛容な神の上位に寛容な絶対神、すなわち理性を創造したのが200年前の話である(フランス革命)。理性という神は、ひとびとに命じていた。自由と博愛と人道と思想、宗教への寛容の精神を。それが、フランスという共同体の大切な価値観、大原則とされた。そして、フランスで近代が始まった。


言いかえれば既存の宗教は、近代的な理性とフランスという共同体の価値観の前に屈服することになった。後に宗教の代わりに非寛容な思想も出現したが、結局は屈服した。非寛容な神も非寛容な思想も、退場したのだ。少なくとも公の場からは。


これでうまく行っていたのが前世期まで。

しかし、うまく行かなくなった。理由はインターネットとグローバリズムの登場とともに、退場したはずの非寛容な神と非寛容な思想が復活したのだ。そんな馬鹿な・・・。


これもどこかで書こうと思うが、テレビや新聞といったメディアが支配的だった頃と比べてみても、インターネットの時代の我々は、考え方が非寛容な傾向があるように思う。我が国にもネット右翼という、とてもとても非寛容な精神をもつ人々が出現したのだし、幸い、非寛容な神は日本では復活してないように見えるけど、今後はどうなるか分からない。


個人が情報の選択をすればするほど、人々は、非寛容に、そして先鋭的になっていく。今思えば、テレビや新聞で、無理やりいろんな情報を刷り込まれるやり方は、人々が非寛容になるのを防止していたのだ。


「インターネットで真実を知った」と述べている人の誤謬はここにある。正しく言えば、「インターネットで ごくごく一面の 真実を知った」である。インターネットという情報の選択を個人に委ねているメディアは、様々の側面から物事を見る面倒くささを省略してしまう。個人にとって心地良くない情報を、シャットダウンできることの危険性は過小評価すべきではないだろう。


情報伝達が困難であった中世の時代に、閉鎖的な限られた宗教、思想グループが先鋭化し、非寛容になっていくのと同じように、インターネットが電子空間で閉鎖的なコミュニティを作り上げ、宗教、思想グループが先鋭化し、非寛容な集団をつくりあげていく。中世の非寛容な神は、インターネットとグローバリズムとともに復活して、現在の先進国の不穏要因となってしまった。


まあ、ここまでの話で今後の展開はほとんど書いたようなもんだ。


今回のChalie Hebdo襲撃事件で分かったことだが、フランス、あるいはフランス人はあくまで非寛容な先鋭化した宗教あるいは宗教集団は、政府も大多数の国民も、問答無用で抹殺する方向で行くだろう。国是であり大原則である寛容の精神が壊れれば、フランス共和国も壊れるのだ。

あれだけの警察が動いて容疑者を無残に射殺したのは、つまりはそういうことだろうと思う。そして、人々の過剰な反応は、反イスラムの怒りではなく、共同体や共和国への反逆に対する怒りなのだ。


寛容を解く精神がもつ非寛容さ、という矛盾は残る。が、そんな反論はものともしない。


自由と博愛と人道と思想、宗教への寛容の精神という絶対神に反逆する異端者は必ず抹殺する。

個人個人が信仰する神が、この絶対神を超える事は何があっても許さない。

この共同体の価値観の尊厳を汚す輩は、何があっても許さない。この価値観を受け入れられないければ、フランスから出ていけ!フランスに来るな!共同体の一員として、良きフランス人であることを示せ!分かったか!


というわけだ。


フランスおよびフランス人が遠いなあ・・・と思うのはこのあたりである。


そして、この肝心の共同体の価値観というのが、恐ろしく難解なのだ。


宗教の寛容に関しての大統領の演説を頑張って(Google先生の指導のもとで)フランス語で読んではみたが、とても難しい。フランスの歴史と教訓といった予備知識がなければ分からないし、理性や思想、宗教の寛容の精神のあたりを正確に理解するのは、啓蒙思想時代の古典をしっかり読んで把握していないとおそらく無理だ。そういった演説が国民向けのメッセージとして成り立つこと自体が驚きである。


こんな読むのが(聞くのが)難解な物は、書くのはもっと難しいだろう。そして、それができる人間にしか、国を動かす選良としての資格は与えられないのだ。フランスの極端なエリート主義は、国家の存続のためにはどうしても必要だ、という事情もなんとなくわかったような。


国を動かす原則が難解である以上、中枢に入れるのはそれを理解でき、解釈できるエリートだけである。個別の宗教を超越した共同体の価値観という絶対神の言葉を、理解し解釈し実施する能力のある選ばれたエリートが、支配者となる国。一面から見れば、ある種の神権政治が行なわれているのが、フランスという国なのだ。


などということを考えてみた。








posted by ペンギン太郎 at 15:17| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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